
33
| 年度 | 選手名 |
| 1952-1953 | 甲斐友治 |
| 1954-1955 | 大山光夫 |
| 1956-1959 | 五島道信 |
| 1960-1962 | 大坂雅彦 |
| 1963-1967 | 井上勝巳 |
| 1969-1971 | 相川進 |
| 1972 | ハンキンス |
| 1973-1974 | 溜池敏隆 |
| 1975-1983 | 石山一秀 |
| 1984-1989 | 依田政彦 |
| 1989 | リベラ |
| 1990-1991 | トレーバー |
| 1992 | ビーン |
| 1992 | デービス |
| 1993 | レイノルズ |
| 1994-1995 | スチーブンス |
| 1996 | アキーノ |
| 1997 | ミラッキ |
| 1998-1999 | 代田建紀 |
| 2000- | 高木康成 |
1954年からは玉野高出身の大山光夫投手が「33」をつけたが、一軍へ上がることなく2年で退団した。
1956年から「33」をつけた五島道信外野手は魚津高の出身で、毎年レギュラー候補と目されながら結果を残せず、3年間で25安打9盗塁を記録しただけで近鉄を去った。
1960年からの3年間は徳島商業高出身の大坂雅彦内野手が「33」をつけたが、こちらも実働2年で21安打と結果を残せなかった。大坂は1963年に井上勝巳投手との交換トレードで毎日大映へ移籍し、1964年の阪急戦ではサヨナラ本盗を決めている。
1963年からはその交換相手・井上投手が「33」をつけ、移籍1年目にいきなりプロ入り初勝利を挙げたが、その後は勝ち星に恵まれないまま1967年に現役を引退した。
1969年からの3年間は、中日から移籍の相川進内野手が「33」をつけた。相川は中日時代の1966年に初打席本塁打を記録したがその後は伸び悩み、近鉄でも3年間で打率.181、12本塁打という不本意な成績に終わった。
1972年に「33」をつけたのは19年ぶりの外国人選手・ハンキンス内野手だったが、わずか24試合の出場で打率.233、0本塁打、2打点と期待を裏切り、1年で日本を去った。
1973年からは、前年まで「26」をつけていた溜池敏隆内野手が「33」に降格した。溜池は1974年に引退するまでの近鉄在籍3年間で9打数無安打といいところがなかった。
1975年から歴代最長となる9年間「33」をつけたのは、前年まで「54」だった石山一秀捕手である。石山は1974年に初めて一軍出場を果たしたのを機に背番号昇格を勝ち取ったが、チームメイトに有田修三捕手、梨田昌崇捕手という球界を代表する名捕手が二人もいたため、試合にはほとんど出場できなかった。しかし1983年の現役最終打席で劇的なプロ入り初本塁打を放った後、韓国に渡って三星で3年間活躍した。
1984年からの6年間は米国育ちの依田政彦投手が「33」をつけ、1986年には中継ぎとして40試合の登板するなどまずまずの活躍を見せた。しかし1987年以降一軍から姿を消し、1989年に現役を引退して西武の通訳となった。
1989年シーズン途中から「33」をつけたのは、17年ぶりの外国人選手・プエルトリコ出身の元大リーガー・リベラ内野手だった。リベラは四番打者として25本塁打、79打点の成績を残し、チームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。
1990年からの2年間は、前年までボルティモア・オリオールズで活躍していたトレーバー内野手が「33」をつけ、1年目は最多安打、2年目は打点王に輝いた。
1992年シーズン当初に「33」をつけたのは元大リーガーのビーン外野手だったが、7試合で5安打2打点と期待に応えられず、シーズン途中で退団した。ビーンは翌年サンディエゴ・パドレズで大リーグ復帰を果たし、1995年まで在籍した。
1992年シーズン途中にカリフォルニア・エンジェルズから移籍して「33」をつけたのは、1984年のア・リーグ新人王で大リーグ通算1189安打、160本塁打、683打点という超大物・デービス内野手だった。しかし近鉄では40試合に出場して5本塁打12打点、打率も.275と今ひとつふるわず、同年退団した。
1993年に「33」をつけたのは、前年まで横浜大洋で活躍していたレイノルズ外野手だった。レイノルズは走攻守三拍子そろった好選手で、来日1年目の1991年に11打数連続安打の日本新記録を樹立し、近鉄でも104試合に出場して打率.298、18本塁打とそこそこの活躍を見せたが、この年限りで近鉄を退団した。
1994年からの2年間は、元エンジェルズの大リーガー・スチーブンス外野手が「33」をつけた。スチーブンスは1995年の開幕直後に6試合連続本塁打を記録するなど、近鉄在籍2年間222試合で43本塁打136打点をマークしたが、打率が低かったため1995年オフに解雇された。その後テキサス・レインジャーズで大リーグに復帰し、みごと一塁手のレギュラーポジションを獲得した。
1996年にはプエルトリコ出身の元大リーガー・アキーノ投手が「33」をつけ、「オクトパス投法」でチームトップの11勝を挙げたが、防御率が悪かったため、わずか1年で解雇された。
1997年には、前年までシアトル・マリナーズに在籍していたミラッキ投手が「33」をつけた。ミラッキは大リーグ通算39勝の実績をひっさげての来日で大いに期待されたが、6試合に登板して0勝2敗、防御率7.30という散々な成績に終わった。
1998年からの2年間は、朝日生命からドラフト6位で入団した代田建紀外野手が「33」をつけた。代田は一軍では2年間でたった7試合にしか出場できなかったが、1999年にウェスタン・リーグの盗塁王を獲得したのを機に「0」への昇格を果たした。
2000年から「33」をつけるのは、静岡高出身のドラフト2位・高木康成投手である。高木は高校3年夏の甲子園で、金属バット導入以後では大会最多となる1試合17奪三振を記録して注目を集めた頭脳派左腕で、今後の活躍が大いに期待されている。
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