三原修
Osamu Mihara

(1952-1984 = 三原脩)

生年月日:
1911年11月21日
所属歴:
丸亀中(転校)→高松中→早稲田大→全大阪(日本生命)→大日本東京倶楽部→東京巨人(1936-1938秋)
監督歴:
読売ジャイアンツ(1947-1949)→西鉄ライオンズ(1951-1959)→大洋ホエールズ(1960-1967)→近鉄バファローズ(1968-1970)→ヤクルト・アトムズ(1971-1973)
身長:
168 cm
体重:
64 kg
利き腕:
右投げ右打ち
守備位置:
二塁手
オールスターゲーム出場(監督):
1955,1957-1959,1961
オールスターゲーム出場(コーチ):
1951,1954,1956,1960,1965,1970
優勝監督(日本シリーズ勝敗):
1949,1954●,1956○,1957○,1958○,1960○
コメント:
中等学校時代の1928年に三番・遊撃手として夏の甲子園に出場したが、準決勝で優勝した松本商に5回降雨コールドで敗れた。大学では1年の時から二塁手のレギュラーとして活躍した。1934年6月に日本初のプロ野球選手として大日本東京野球倶楽部と契約し、1936年には選手兼助監督として東京巨人に入団した。1938年秋のシーズンを最後に現役を引退、1947年から3年間読売の監督をつとめ、1949年には1リーグ時代最後の優勝を果たした。1951年からは西鉄の監督に就任し、リーグ優勝4回、日本シリーズでは1956年から3連覇を果たした。1960年に大洋の監督に就任すると、前年最下位のチームを「三原魔術」と呼ばれる巧みな選手起用でリーグ優勝に導き、日本シリーズでも毎日大映を全試合1点差勝利のストレートで下した。万年最下位チーム・大洋の日本一は、野球界を越えて社会全体に一大センセーションを巻き起こし、そのみごとな采配に対して菊池寛賞が授与された。1968年からは近鉄の監督に就任し、それまで4年連続最下位だったチームを1年目からいきなり4位に引き上げ、翌1969年には球団史上初の優勝争いを展開して2位に入る大躍進を遂げた。しかし勝負の年とされた1970年には「黒い霧」事件の余波を受けて3位にとどまり、優勝を逃した責任をとって辞任した。その後1971年からはヤクルトの監督をつとめたが、3年連続のBクラスに終わった。計26年間の監督生活で、プロ野球史上最多となる3248試合の指揮を執った。1983年に競技者表彰で野球殿堂入りを果たしたが、翌1984年2月に他界した。

打撃成績
年度 守備 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 打率
通算3年 108 407 92 0 40 27 .226

監督成績
年度 背番号 試合 勝利 敗戦 引分 勝率(順位)
1968 70 135 57 73 5 .438 (4)
1969 70 130 73 51 6 .589 (2)
1970 70 130 65 59 6 .524 (3)
合計3年 395 195 183 17 .516
通算26年 3248 1687 1453 108 .537


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