
22
| 年度 | 選手名 |
| 1950-1955 | 森下重好 |
| 1956-1965 | 黒田勉 |
| 1966-1970 | 田端謙二郎 |
| 1971-1972 | 宮原秀明 |
| 1973-1974 | 久保祥次 |
| 1976 | 平野光泰 |
| 1977 | バディ |
| 1978-1980 | 野田雲平 |
| 1981 | 白仁天 |
| 1982-1988 | 住友一哉 |
| 1989-1992 | 佐藤秀明 |
| 1993-1995 | 吉田道 |
| 1996 | C・D |
| 1997- | 礒部公一 |
1955年に森下が引退すると、翌年からの10年間は日本鋼管出身の黒田勉投手が「22」をつけた。黒田は弱小球団の主力投手として奮投したが、攻守両面で野手陣に足を引っ張られ、38勝93敗の成績を残して1965年に引退した。
1966年から「22」をつけたのは、前年秋の第1回ドラフト会議で1位指名を受けた電電九州出身の田端謙二郎投手である。田端は1968年にウェスタン・リーグで10勝1敗の好成績をマークし、最優秀勝率投手にも輝いたが、一軍では通算1勝7敗と結果を残せず、1971年には「47」へ降格となった。
1971年開幕時には「22」は空き番号となっていたが、シーズン途中にヤクルトから移籍してきた宮原秀明外野手がこれを埋めた。宮原は2年間で代打を中心に95打数28安打4本塁打と活躍し、1973年には大洋へ移籍した。
1973年からの2年間は広島東洋から移籍してきた久保祥次捕手が「22」をつけた。球団史上初の「22」捕手である。しかし久保は1年目に23試合捕手をつとめただけで、2年目は出番がないまま現役を引退した。
1年の空白期間をおいて1976年に「22」をつけたのは、前年まで「37」で一軍の控え選手として活躍していた平野光泰外野手である。平野はこの年、わずか15試合の出場で無安打に終わったが、「9」をもらった翌年には一躍外野手のレギュラー・ポジションをつかんだ。
1977年に「22」をつけたのは、前年まで大リーグ・シカゴ・ホワイトソックスで活躍していたバディ外野手である。バディは56試合に出場して15安打4本塁打と期待を裏切り、わずか1年で日本球界を去った。
1978年からの3年間は、柳川商業高からドラフト4位で近鉄入りした俊足の野田雲平外野手が「22」をつけた。しかし野田は3年目までに一軍出場を果たせず、1981年には「41」へと降格になった。
1981年には、ロッテから移籍してきたベテラン・白仁天外野手が「22」をつけた。白は84試合に出場して44安打を放ったものの、すでに往年の輝きは失っていた。それでも翌1982年、新設の韓国プロ野球にMBC青龍の監督兼選手として参加し、みごと初代首位打者に輝いた。
1982年からの7年間は、プリンスホテルからドラフト6位で近鉄入りした住友一哉投手が「22」をつけた。住友は中継ぎとして7年間で15勝7敗10セーブの好成績を残し、1989年には佐藤秀明投手らとの交換トレードで阪神へ移った。
1989年から「22」をつけたのは、その住友の交換相手・佐藤投手で、移籍1年目の1989年にはセットアッパーとして7勝3敗4セーブの好成績をマーク、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。
1993年からの3年間は、東海大学付属相模高からドラフト2位で入団した吉田道投手が「22」をつけたが、一軍登板のないまま1996年には「59」へと降格されている。
1996年には、ボストン・レッドソックスから移籍してきたC・D(本名ドネルス)内野手が「22」をつけた。C・Dは108試合に出場して打率.281、本塁打20というまずまずの成績を残したが、シーズン終盤の故障を理由に同年解雇され、翌年からの3年間はオリックスでプレーした。
1997年からは、三菱重工広島出身のドラフト3位ルーキー・礒部公一捕手が「22」をつけた。礒部は俊足強打の捕手として1年目から活躍し、2年目の1998年には捕手と外野手の両ポジションで準レギュラーとなった。
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