
9
| 年度 | 選手名 |
| 1950-1957 | 山本靜雄 |
| 1958-1959 | 佃明忠 |
| 1960-1962 | 矢ノ浦国満 |
| 1963-1968 | 吉沢岳男 |
| 1969-1976 | 伊勢孝夫 |
| 1977-1985 | 平野光泰 |
| 1986-1992 | 新井宏昌 |
| 1993-1999 | 内匠政博 |
| 2000- | 鷹野史寿 |
山本の引退と入れ替わりで「9」をもらったのは、毎日から移籍の佃明忠捕手である。「打てる捕手」として移籍1年目からレギュラーの座を獲得したが、翌年は打撃を生かすために外野手転向、結果が出せずにこの年限りで引退した。
三代目「9」は再び内野手に戻り、高卒ルーキー・矢ノ浦国満がつけた。矢ノ浦は入団1年目の1960年、弱冠19歳にして遊撃手のレギュラーポジションをつかみ、一桁背番号を与えてくれた首脳陣の期待に応えた。
しかし矢ノ浦は1963年から背番号を「1」に変更する。「9」より「1」の方が魅力的だったことに加え、前年の1962年に中日から移籍してきた吉沢岳男捕手が、中日時代の背番号である「9」を欲したことが大きな理由であろう。吉沢は背番号のおかげかどうか、中日時代と同様に強肩のレギュラー捕手として長く活躍した。
吉沢は1968年を最後に近鉄を去り、交換トレードで古巣の中日に戻った。空いた「9」は翌1969年、一軍に定着したばかりの若手一塁手・伊勢孝夫に受け継がれ、伊勢はこの年、16本塁打を放って五番打者に定着、みごと首脳陣の期待に応えた。伊勢は1971年に28本塁打を放つなどその後も主力として活躍し、その勝負強さから「伊勢大明神」と呼ばれたが、1976年のオフにトレードでヤクルトへと去った。
ここまで「9」は内野手と捕手の間を往復していたが、1977年に初めて「9」をつけた外野手が誕生した。平野光泰である。平野は前年まで、期待されながらもなかなかレギュラーの座を獲得できない一軍半の外野手であった。しかし背番号の変更がいい刺激になったのか、この年レギュラー中堅手に定着、以後8年間主力選手として大活躍し、1980年にはサイクルヒットも達成した。
平野が引退した1985年の秋、近鉄は山口哲治投手との交換トレードで南海の新井宏昌外野手を獲得する。平野と同じ中堅手の新井は、背番号も同じ「9」を受け継いだ。南海時代に2度も打率2位に入っていた新井は、近鉄移籍2年目の1987年に.366の高打率で初の首位打者を獲得、以後も二番打者として活躍し、1992年に2000本安打と300犠打を達成して引退した。
新井が引退した1992年の秋、社会人の日本生命から即戦力外野手としてドラフト3位で近鉄入りした内匠政博は、新井と同じ左打ちの外野手というつながりもあって「9」を受け継いだ。内匠は期待通り1年目から一軍に定着し、2年目の1994年から2年間は左翼手のレギュラーとして活躍した。
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