あとがき

 私が近鉄バファローズのファンになったのは、1988年10月19日のことです。それ以前は、一時阪急沿線(正確には能勢電鉄ですが)に住んでいたこともあって阪急ブレーブスを応援していました。しかし当時の阪急は、福本豊外野手の衰えなどもあって、私にとって以前ほど魅力のあるチームではなくなっていました。そんなとき、あの「10・19」に遭遇したのです。近鉄と西武の優勝争い。前年阪急の優勝を阻止した宿敵であるということ、またそれ以外のあらゆる理由から、私の最も嫌う球団であった西武ライオンズと、数年前にいとこが近鉄に就職して以来、ファンというわけではないけれども、多少は気にかけていた球団・近鉄バファローズ。この両者による熾烈な優勝争いで、私がどちらのチームを応援したかは言うまでもないことでしょう。そしてあの10月19日。梨田昌孝捕手の勝ち越し打でマジックを1としながら、最後は(対戦相手・ロッテでも、優勝争いの相手・西武でもなく)「時間」という敵の前に敗れた近鉄バファローズ。「あまりに劇的すぎて、漫画や小説では書けない。書いたらうそつきと言われる」とさえ言われたこのダブルヘッダーをきっかけに、私は近鉄ファンになりました。そして奇しくもその同じ10月19日、私がそれまで応援していた阪急ブレーブスは、オリックスへの身売りという形で消滅することが決まったのでした。

 そして翌1989年、私が見放した(旧阪急、現オリックス)ブレーブスは開幕から首位を独走し、近鉄は2位とはいえ首位から大きく水を空けられてしまいました。しかし頑固な私は今更ブレーブスに戻ろうなどという気にはなれず、バファローズを応援し続けました。そのかいあってか、近鉄はその後じわじわと追い上げ、最後は西武、オリックスとのこれまた「漫画にも書けない」デッドヒートを制して、ついに10月14日、あの日から360日後に優勝を果たしたのでした。

 

 私は近鉄ファンになる3年ほど前からずっと千葉に住んでいます。関東では、関西の球団の情報はなかなか入ってきません。ましてや近鉄はパ・リーグの球団ですから、マスコミ露出度は在京セ・リーグ球団に比べると不当なまでに低いのです。試合のテレビ・ラジオ中継も、西武戦を除けばほとんどありませんから、見たくも聞きたくもないセ・リーグの試合中継を、途中経過を知るためだけにつけておくこともしばしばでした(その後、ラジオ大阪の「近鉄バファローズ・ナイター」が夜中だけかすかに聞こえるということに気づきましたが)。しかし、1996年からインターネット上に個人のホームページを開いていた私は、あるとき近鉄バファローズの「公式ホームページ」を見つけました。「これだ!」と思いましたが、残念なことにこのホームページは、「近鉄バファローズ」のファンのためのホームページというよりは、「近鉄球団」の営業のためのホームページだったのです。翌年オープンする大阪ドームやファンクラブ入会の情報はあっても、選手の紹介やチームの試合日程・結果の情報はどこにもありませんでした。これにはがっかりさせられました。

 ところが翌1997年のシーズン後半、近鉄ファンの友人「ICE」さんに言われて、もう一度近鉄関係のホームページを探してみると、ファンが運営する非公式ページのなかに、かなり充実したページを2つ見つけました。ひとつは荒井幸雄選手ファンの「ゆきおっさん」が運営する「荒井幸雄と近鉄バファローズ」、もうひとつはイギリス在住の近鉄ファン「Mina」さんが運営する「バファローズ 97 日本一への軌跡(仮題)」でした(このほか、「おばちゃん」さんの「頑張れバファローズ」や、「天やん」さんの「週刊?きまぐれバファローズ」なども興味を引かれるページでした)。そして、これらのページの掲示板、チャットで知り合った関東の近鉄ファンと1997年の最終戦(10月10日、千葉マリンスタジアム「猛牛病患者関東大結集」)で直接お会いすることができ、私の「近鉄ファン世界」は大きく広がったのでした。

 ところで、この1997年という年は、近鉄バファローズ史上最高の二塁手・大石大二郎選手にとって現役最後のシーズンでした。したがって、その1997年の最終戦は、当然のことながら大石選手の現役最後の公式戦=引退試合になるものと、多くのファンは考えていました。そこで私は「最後の大ちゃんコール」を録音すべく、球場に(携帯可能な録音装置を他に持っていなかったので)ノート・パソコンを持っていきました。しかし大石選手は結局最終戦には出場せず、私はコールの代わりに他の選手の応援歌を録音しました。「せっかくだから、この録音をウェブ上で公開しよう」ということで、これらの録音の wav ファイルを含んだページをインターネット上に公開しようと思い立ちました。「どんなページにしよう?」「公式ホームページを反面教師にして、訪れてくれたファンががっかりしないようなものにしよう」「ファンが求めている情報を載せよう」「じゃあタイトルは『近鉄バファローズ・ファンのためのハンドブック』がいいだろう」。こうした経緯でこのハンドブックが誕生したのは1997年10月14日、あの奇跡の逆転優勝からちょうど8年後のことでした。

 

 私は小学生の頃から歴史が好きでした。中学校までは日本史、高校では世界史にとくに興味を持ち、大学でも西洋史を専門に勉強しました。そんな私が近鉄バファローズの歴史に興味を持ったのは当然のことだったのかもしれません。きっかけは前述の「Mina」さん運営「バファローズ 97 日本一への軌跡(仮題)」の中にあった近鉄球団の年度別成績表でした。この表は、万年最下位の弱小球団・近鉄が徐々に力をつけていく様子をよく表しており、私の歴史好きの血を大いに騒がせるものでした。ところがちょうどこの時期、「Mina」さんのページは引っ越しの真っ最中で、この成績表はまもなく行方不明になってしまいました(本当は表紙からのリンクを外しただけのようですが)。そこで私は、「Mina」さんのページに代わる年度別成績表を作って「ハンドブック」に掲載することにしました。これが現在の「近鉄球団49年のあゆみ」の起源にあたります。

「近鉄には過去の選手の写真などを飾っておくスペースがなくて、食堂に歴代のタイトル・ホルダーの写真が申し訳程度に貼ってあるだけ。それも僕が入団して3年目か4年目に作ったもので、写真も新聞社からの借り物。とても誇りを持てるようなシロモノじゃなかったです。」(野茂英雄『ドジャー・ブルーの風』[集英社 1996年]、180ページより)

 「ハンドブック」を公開してまもなく、私は野茂英雄投手の著書中に上のような文句を見つけました。そして「現役選手だけでなく過去の名選手たちの紹介ページも作ろう」と思い立ちました。最初は1000安打以上の打者や100勝以上の投手のページだけでしたが、その数はどんどん増えて100人を軽く超え、現在では「名牛会」名簿としてまとめられています。野茂投手が退団してからもう4年が経ちましたから、ひょっとすると今の近鉄には過去の名選手をたたえるスペースができているかもしれません。しかしこの「ハンドブック」は、インターネットを通して世界中の誰もが参照できるという利点を持っています。写真を掲載できないのが残念ですが、野茂投手、満足していただけるでしょうか?

 

 最後になりましたが、ここに登場したすべての個人および団体に謝意を表したいと思います。偶然とはいえ、このハンドブックの誕生を促してくれたのは、以上に挙げたすべての人々だからです。また、このハンドブックを一度でも見てくださったすべてのファンにもお礼を申し上げます。このハンドブックが1年以上続いているのは、ファンの皆様のおかげです。

 1999年2月19日、おっと記す。

 なお、年度別成績や個人成績、試合結果などを記述するにあたっては以下の文献、映像を参照させていただきました。記してお礼申し上げます。


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