16

年度選手名
1950-1963武智文雄(田中文雄)
1964-1975佐々木宏一郎
1977-1988久保康生
1988-1995ブライアント
1996-岡本晃

 「16」は十番台であるから、伝統的に投手の背番号とされている。初代「16」は、球団創設と同時に社会人の大日本土木から近鉄入りした下手投げルーキー・田中文雄がつけた。田中は2年目の1951年に15勝を挙げてエースにのし上がり、1954年には26勝で最多勝利投手にも輝いた。結婚して武智と改姓した1955年にはパ・リーグ史上初の完全試合も達成している。通算100勝をマークして1962年に引退、翌1963年からコーチをつとめたが、背番号は現役時代の「16」をつけていた。

 その1963年、大洋をクビになった一人の若手投手がテストで近鉄に移籍してきた。佐々木宏一郎である。佐々木は同じ下手投げの武智コーチの指導を受けて急速に力をつけ、翌1964年には一軍の戦力となった。佐々木の入団時の背番号は「62」であったが、武智は成長した佐々木を自らの後継者と見なして「16」を譲り、自分は佐々木の「62」を引き受けた。その佐々木が実績面でも武智の真の後継者となるのは1970年である。佐々木はこの年、10連勝を含む17勝(5敗)をマークして最優秀勝率投手に輝いたばかりか、近鉄史上2度目、武智以来の完全試合まで達成したのである。

 1975年シーズン途中、佐々木は島本講平外野手との交換トレードで近鉄を去った。「16」は翌1976年まで空き番号となる。1976年秋、その夏の甲子園大会で活躍した柳川商業高のエース・久保康生がドラフト1位で近鉄に入団した。高卒とはいえ将来有望なドラフト1位投手である。当然、いい背番号が用意されることになり、空いていた2つの十番台、「11」と「16」のうち、「16」の方が与えられた(「11」は阪神から移籍のベテラン・米田哲也がつけた)。久保は入団4年目の1980年に8勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、1980年代前半を通して先発と抑えにフル回転した。しかし1988年6月に中谷忠己外野手との交換トレードで阪神へと移籍してしまう。

 久保の移籍で空いた「16」は、とんだハプニングの結果、すぐに埋まることになる。近鉄は主砲のデービス内野手が大麻所持で逮捕されてしまったため、代役として急遽、中日の二軍でくすぶっていたブライアント外野手を金銭トレードで獲得したのである。主力にふさわしい若い背番号はデービスの「15」と久保の「16」が空いていたが、さすがにデービスの「15」は敬遠されたため、「16」は自動的にブライアントのものになる。その後のブライアントは超人的な活躍を見せ、移籍した1988年はわずか74試合の出場で34本塁打を放ってチームを優勝争いに導き、翌1989年にはリーグ優勝に貢献して最優秀選手に選ばれた。以後1995年途中で解雇されるまでに259本塁打を放ち、本塁打王を3度、打点王を1度獲得するなど、リーグを代表する長距離打者として活躍を続けた。

 故障続きだったブライアントが解雇された1995年秋、近鉄はドラフト2位で関西大の岡本晃投手を指名した。ドラフト1位指名選手が入団を拒否したため、実際には近鉄の最高位指名であった。当然、十番台のいい背番号が用意される。当時の空き番号は野茂の「11」とブライアントの「16」だった。投手の岡本には野茂の「11」の方がふさわしいようにも見えるが、野茂といえば制球に難のある上手投げ投手である。横手投げで制球のよい岡本には、武智−佐々木の流れを汲む「16」の方が用意された。岡本は入団2年目の1997年に10勝を挙げ、リーグ2位の防御率2.82をマークして新人王の有力候補となった。翌年以降も主力投手として活躍している。


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